昭和40年9月21日朝の御理解
辛いはずのコショウが辛くなかったら、コショウの値打ちというか、辛いということはコショウの命である。ね、コショウが辛くなかったら、もうコショウの値打ちはない。辛いということ、コショウの値打ちであり、命であるということ。人間の値打ちと、いや人間の値打ちというよりも、信心をさせて頂く者、ね、よる教祖は、たくさんの氏子の中から信心をさせて頂く者を信者氏子とおっしゃる。信者氏子の値打ち、どういうところに信者氏子の値打ちがあると。その信者氏子の生命ともなるものはどこか。(?)なんとはなしに、辛いコショウのように(?)そこにピリッとするものがですね、なからなければならんと私は思うですね。そのピリッとするものがです。良しにつけ悪しきにつけ、そのピリッとしたものを感じれるということ。
昨日、久留米の三橋(?)先生と、野口さんが参ってみえてから、美登里会の会員の方達の子供さんが、嫁さんをもろうたり、やったりする時に、必ずその会員の( 雑音数秒 )はなむけをなさる。そのはなむけに色紙を額の中に入れて、そしてそれを贈られるわけなんです。ですから、その色紙に私何か一言いつも、その書いてくれと、それをはなむけにしたいと。なかなか良いアイデアだと思うし、また本当にありがたいことだとも思うです。ね、お金も大してかからんだろうし、椛目にご信心を頂いておるならば、中の字が上手とか下手ということではなくてです。ということではなくて、それが神様に頂いた教えであり、御理解であるから、その頂いたものが、それを、まぁいうならば、かけ守りのようにして、ここだけにでも取り組んでおけば、おかげが頂けると。まぁ今日の御理解で言うならば、いつもその、何とはなしにピリッとしたものが感じれれるように。もちろん、それを行じなかったら、だから、それは値打ちはないです。また、そのただ観賞用というようなだけならば、鑑賞に値するものではないです。何故って、そのいわば下手な字が書いてあるだけですから。教祖の教えそのものが大事。御理解その内容が尊いのであるから、それを例えば、新たな、いわゆる人生に踏み出していく結婚に入らせて頂いたという、その人が美登里会の方達の真心を、そういうふうに持って行っていかれれば、それは値打ちがあるわけなんです。
昨日、これを持ってみえたら(すうこん?)なことを頂いたから、私これを書かせて頂いた。下手な字だから読めんですかも。「信行」と書いてある。信心は信心の信。それでそこに、まぁ御理解が書いてある。「影と日なたの心を持つなよ」「影と日なたの心を持つなよ」と。私は、信心させて頂く者がね、この信行を怠ったら、もう値打ちはないと。お参りしよりますと、もう10年も、もう20年も、もううちは親の代からでございますと言うても、もう値打ちはなか。金光様のご信心にここで信行が伴わなかったら。例えて言うならば、ここの娘さん、みつ子(?)さんて言いますが、一家中があれだけ大体は信心はしておるけれども、子供達は信心がない。月次祭たんびに、おばあちゃんを朝、自動車で送ってくるという程度、もうついて来るだけ。お参りというよりも、ただついて来るというぐらいのこと。けれども、やはりいよいよん時には、親達が、ババ達が、金光様、金光様できとるから、ま金光様とまた、そのおすがりでもしなければならないようなことがあろうけれども、だから、これに対するところの、その御理解はです、ね、ま、参ってこんでもいいということ。けれども、これだけはいつも心にかけておきなさいよと、ね。金光様の信心、いわゆるお婆ちゃんやら、お母さんが、あんたのことを例えば願わん、祈らんことはないから、その祈りを受けとめさせて頂くためにでも、心の中に、金光様のお祈りを頂いておるんだという気持ちを忘れなさんな。そして、今日一日をです、例えば影と日なたの心を持つようなことがあっちゃならん。影と日なたの心を持っちゃならんと、そのことを例えば思い続けるという、それが信行なのです。お参りをする、拝むということだけが信行ではない。信心させて頂いておる、いわばその端にでも、おかげを頂いておるのだから、ここの思いをいつも絶やさんでいけばです、神様と必ず通うものが出けてくる。その、通う、そのルートを通って、あなたは幸せなおかげに入っていくことができるだろうという御理解。それから、ちょいと言うなら、朝参りお参りさしてもらい、毎日、日参さして頂いておるからというてです、いわば信心をさせて頂いておる者の値打ちというか、信心、いわゆる氏子信者の値打ちがあるかと。毎日お参りさせて頂きよってもです、ね、お気付けをお気付けと気付かなかったり。おかげをおかげと気付かず、有り難いとも、相済まんとも、あらっとも思わないようなことではです、これはもう丁度、辛さを無くしたコショウのようなものであるということ。形だけはコショウのようにしておっても、そういう信心がお道の信奉者の中にもどれだけおるやら分からんと思うです。本当私は思う。なら、ご本部参拝もしござる。毎日お参りもござる。うちでも拝みござると。なるほどおかげは頂きますもんね、お願いをして、いよいよという時は、それで。けども、なら神様がご覧になって、いわば値打ちのある氏子とでも、ま、いう言葉ででも申されるならです、ね。あー、もうこんコショウはつまらん、いっちょん辛か、辛みがなくなった、と、捨てられるより他ないでしょうもん。信者氏子としての値打ちがなくなったらです、もう神様が御用に使こうてくださらんです、御用に。ね、神様に御用に使こうてもらわなければ、また、神様から、ねー、「氏子の用は神が足してやる」とおっしゃるようなことになってこない。ね、それは、もう最近この頃、どうも信心が抜けたごたる。どうもこれじゃいかん、これじゃいかんと思いよりますと、というようにその、自分で信心の抜けていきよることを気が付くぐらいまでは、もうできんです。自分が信心の抜けておることをです、ね、様々な、やれ口実を見つけては、その、それを感じないようにでもなったらです。もう、いうなら神様がお役には使こうてはくださらんです。まぁ、例えていうなら、総代なら総代という御用に使こうてくださる。まぁ極端な話を言うなら。ほんと総代になるとこの頃、世話も大事だし、もう出しもんも余計出さやんし。もう機会があったら、もう、いちお総代ば辞めよう、というような時には、もう必ず、もう神様の方がように使わんぞと言いござる、と同じです。
先日も、ある総代さんが、もう本当にお参りもできませんし、御用もできませんから、本当に総代にただ籍置いとるだけじゃ相済まんから、と、こう言うておられるけども、それを聞く時、私、ひやぁーとするんですね。こげなよか総代さんばなくすなら、どうするじゃろかというようなそげな思いは、私はこれくらいもないです。辞めるならいつでも辞めてもよい、という私の気持ちですけれども、神様はそうじゃないです。どうかして、御用に使こうてくださって、そしてまた神様の用に立ってくださろうとする、本当の働きとでも申しましょうか。いわゆるお気付けを頂きよっても、おかげを受けよっても、ピリッとするようにです、コショウがピリッとするような辛さをです、なくしていきよると。いわゆるそれを、なら、どこにその原因があるかというと、心行を怠っておる時であるということ。心の中にです、心の中にじゃない、それは、今私が申しましたのは、ここにお参りができんから、ね、信心はお参りすることだけじゃない、というふうに言うておりますけど、実際はです、お参りさして頂いておっても、信者氏子としての値打ちは、私は心行がでけていく。日々に教えがです、生活の中に、生き方の中に生き生きとして現れていく時です、神様と絶えず交流があっておるでしょう。そこには、ハッと、こう気付かせてもらうようなこともあろう、また、今まで気付かなかったことに、ハッとするほどに、こげなおかげを頂いておったのに、というようなおかげも頂けるだろう。相済まん、ということやら、有り難いと思うような心が、次のまたおかげを生みなしていくのだから、心行を怠ったのではです、いわば信者氏子の値打ちがない、辛いものがなくなったら、あらもうこのコショウはもう何にもならんと言うて、例えば人間が、その辛くないコショウは、もう用に使わないように。ね、信者氏子としての用に使こうて頂けなかったら、私は信心の本当の値打ちは、もうないと言わなければならないがです、果たして本当にお道の信奉者の中に、そういう値打ちのある氏子信者と言うて頂ける値打ちのある信心を頂いておる者が、果たしてです、どれだけあるだろうかと思うたら、何か心にですね、いわゆる、心が寒うなる思いが致します。毎日、例えお参りしよっても、ね、自分の方が、もうそのお役に使こうてもらうことを、その向こうの方へ辞退しようというような心が起こってくる時にはです、よーし神様がそうであっても、ね、とにかくお役に立ちたい、お役に立ちたいという念願がです、私共の心の中にいつもなからなければ、私はならないと、こう、ね。一つ、お役、私は総代さんというその例を取りましたけれども、一平信者でありましてもです、私はそれぐらいなものはどこに、その、ま、信者の中の位置というか、地位のところにおるか分からないという信心頂いておる者でもです、ね、本当にお役に立ちたい、お役に立ちたいというような願いがなくなり、心行の精神がなくなったら、それは辛さを失せておっておるところのコショウにも等しいんじゃないかというふうに思いますですね。どうぞ、おかげを頂かれて・・・
末永ていこ